忍城(忍城址公園・忍公園) 忍城フォトギャラリー
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忍城 御三階櫓
映画「のぼうの城」の舞台となった城下町行田の「忍城(おしじょう)」は、古く文明年間(1469〜1486)に山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされ、関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられました。
1590年、豊臣秀吉と小田原北条氏の戦い(小田原の役)で、石田三成らによる水攻めを受けます。この水攻めは失敗に終わり、別の形で開城するわけですが、「浮き城の町 行田」とのキャッチフレーズとなって今に残りました。
自虐的に聞こえるかもしれないけど、「浮き城」とは水攻めされた忍城に由来しているのですね。
この戦いにより、成田氏100年の支配が終焉し、徳川家康の持ち城となりました。以後、松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年の長きに渡って忍10万石を支配しました。明治維新でも戦火を逃れ、廃藩置県により二の丸に忍県の県庁がおかれましたが、明治6年に、なんと競売されて解体されてしまったそうです。今から考えれば信じられないことですが、当時はそんな時代でしたよね。
1978年(昭和63年)、忍城の本丸跡に再建され、行田市郷土博物館と合わせて広さ約2.5haの区画が整備されました。再建された天守(実際は天守ではありませんが、便宜的に)は代用である御三階櫓(ごさんかいやぐら)で、現在は資料館になっています。関宿城みたいですね。行田市郷土博物館から入り、階段で4階まで上がることができます。
22台が駐車可能な「第二駐車場」とお堀以外は、ほぼすべてが城壁に囲まれています。
忍城は、下の GoogleMap では、「行田市立郷土博物館」と表示されていいます。
抜けが良いので2009年9月に撮影した写真も残しておきます。 |
同じく2009年撮影 |
2009年撮影 |
2009年撮影 |
こちらは2017年撮影 |
忍城今昔地図
2000年(平成12年)の測量図に、1832年(文政6年)の忍城絵図を重ねたもの。資料の無い部分も多く、一部推定で位置を復元しています。 |
城門の脇に立つ案内看板。 |
城門
なんか間抜けな写真ですみません。 |
2009年撮影。樽形収差がひどくてすみません。 これ以上修正できず。 |
城壁内部
城壁の内部に少しだけ開けた場所があって、ベンチも置いてありました。
周囲を城壁に囲まれて鬱蒼とした雰囲気があって、ふと横手を見ると竹林があったりして、とても雰囲気の良い場所です。
ボール遊び等はできないと思いますが、ベンチに腰掛けて忍城の時代を忍ぶにはかっこうの場所かもしれません。
この写真の左手奥が少し開けた広場。 |
遺構 移築された門
進修館の表門にある但し書き。 |
忍城の鐘
土塁
行田市郷土博物館
「行田市郷土博物館」は忍城の本丸の跡地に1988年(昭和63年)2月にオープンしました。郷土博物館の写真をたくさん掲載した「行田市郷土博物館 フォトギャラリー」
博物館では古代の行田から現代まで、実物の資料を数多く展示しています。2015年(平成27年)には「行田市郷土博物館」所蔵の「行田の足袋製造用具及び製品」4971点が登録有形民俗文化財に登録されました。
江戸時代中期頃から始まった行田の足袋つくりは明治・大正と受け継がれます。工場にミシンが導入されると足袋の生産量は飛躍的に向上し、昭和13年には全国80%のシェアを占めるまでになりました。しかし、戦後になると服装の変化から生産が減っていきます。
余談ですが、行田の足袋製造業者の奮闘を描いた『陸王』という小説があります。作者はあの『半沢直樹』の作者として知られる池井戸潤氏。この作品が2017年10月からTBSの日曜劇場でドラマ化されることになりました。
半沢直樹を演出したことで知られるようになった福沢諭吉の孫・福澤克雄氏が演出を手がけて、半沢直樹のスタッフが再集結するそうでかなり楽しみです。
小説本文には、「行田市の中心からやや南、水城公園とさきたま古墳公園にはさまれた場所に、こはぜ屋は昔ながらの本社屋を構えていた」とあります。この住所には足袋屋さんが2軒あるのですが、その内の1軒「きねや足袋」さんは実際にランニング足袋「きねや無敵」という商品を開発しています。池井戸潤氏が取材にも来られたようです。モデルはこのあたりでしょうか。
博物館の周辺は広さ約2.5haの忍城址公園(忍公園)として整備されています。