さきたま古墳公園(行田市) 稲荷山古墳
国宝「金錯銘鉄剣」が出土
手前に見えるのが前方部。後が後円部。 |
さきたま古墳公園の「稲荷山古墳」は、100年に一度の大発見と言われた「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土したことにより、教科書にも登場する埼玉県を代表する前方後円墳です。「金錯銘鉄剣」は全長73.5センチの鉄剣で、表に57字裏に58字の計115字の金象嵌の銘文が刻まれた古代国家成立のなぞを解くための超一級の資料です。
余計な話ですが、前方後円墳は日本でしか見られない古墳の形なのだそうです。韓国にも数基あるそうですが日本由来らしい。で、これって鍵穴に似ていますよね。鍵穴は丸い方を上にしたイメージです。でも前方後円墳は字の通り、前が方(四角)で後が円(丸)という意味になってしまいます。鍵穴とは逆で座りも良くありません。
古くはヒョウタン形などとも形容されていたそうで、円形をしている後円部が埋葬のための墳丘でこちらが主丘なんだそうです。前方部は死者を祀る祭壇として発生したとする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説等あって、はっきりとしないのだとか。で、どっちが前でどっちが後なのか。これも便宜的に「前方後円墳」と呼ばれているのが現実のようです。後円部の方が前方部よりも高いのも特徴ですね。
稲荷山古墳は、墳丘の全長が120メートル、後円部の直径が約62メートルで高さが約11.7メートル、前方部の幅が約74メートルで高さが10.7メートルもあります。古墳の上に小さな稲荷神社があったことから稲荷山と呼ばれるようになったのだそうです。
発掘調査の結果、古墳の周囲に長方形の堀が二重に巡らされていることがわかりました。また、西側の墳丘部と中堤の2ヶ所に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる祭事などの儀式が行われた広場があったこともわかりました。
稲荷山古墳が作られた時期は出土した副葬物等から見て、さきたま古墳群では最も古く5世紀の後半か末頃と考えられているそうです。
1968年(昭和43年)に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査で、後円部の頂上の地下から2基の埋蔵施設が発見されました。一つは中央から少しずれた場所の地下約1メートルの場所に、粘土を敷き詰めて上に棺を置いたもので「粘土槨(ねんどかく)」と呼ばれています。
もう一つは同じく中央から少しズレた場所の地下約1メートル前後の舟の形に掘った縦穴に、握り拳より大きめくらいの石を貼り付けて並べて棺を置いたものでこちらは「礫槨(れきかく)」と呼ばれています。
「粘土槨」の方は既に盗掘された後だったそうですが、「礫槨」の方は盗掘されておらず埋葬したときにどのように副葬品を並べたかわかるほどよく残っていたそうです。残念ながら木の棺や遺体は跡形も無かったそうですが。
この「礫槨」から「金錯銘鉄剣」を初めとした多くの副葬品が発掘されました。日本史の教科書に収録されて注目をされているのは「金錯銘鉄剣」ですが、同時にまとめて国宝に指定された副葬品も実はかなりすごいんだそうです。
工具類が多く見つかっていて、鉄の斧やペンチのような鉄鉗、今でも宮大工が使う「鉄(金扁に「施」の旁)やりがんな」、ピンセットの「鉄鑷子(ちょうし)」、砥石など。ほかにも多くの馬具や武器、中国の影響が大きい「鏡」、龍の姿を透かし彫りした帯につける金具類「帯金具」、糸魚川の翡翠で作られた「勾玉(まがたま)」、銀の棒をイヤリングにした「銀環(ぎんかん)」など、発見された多くの副葬品が国宝に指定されています。
現在、古墳の頂上にあるのは縦穴の「礫槨」の実物大の絵を描いた模型です。2016年夏頃までは実物大の模型がおいてあったのですが、最近絵を描いた模型に変わってしまいました。
実はこの物語には続きがあります。
2016年12月30日、後円部中央の地下に、未知の埋葬施設の可能性がある構造物らしきものが確認されたと朝日新聞が報じました。
地下約2.5メートルに、長さ4メートル幅3メートル厚さ最大1メートル前後のレンズ状の影があることが、東北大学の研究チームと「さきたま史跡の博物館」の共同調査でわかったのだそうです。
最新では朝日新聞がこのように伝えていますが、実は1982年(昭和57年)以降、何度か地下のレーダー探査が行われていて、朝日新聞が報じた中央の主体部の他に二つの埋葬施設が存在する可能性が指摘されています。発掘された「礫槨」と「粘土槨」と合わせて全部で五つの埋葬施設が存在する可能性があるのだそうです。
発掘は未定だそうですが、もしかしたら「古墳の真の主」が埋葬された施設かもしれません。発掘が待たれます。すごく楽しみですね。
丸墓山古墳の頂上からみた「稲荷山古墳」。 左が後円部で「礫槨」の模型(写真だけど)があります。 |
稲荷山古墳 案内板
稲荷山古墳 案内板 |
稲荷山古墳 後円部 頂上へ
階段を登ります。 |
稲荷山古墳 後円部の頂上です。 右手にあるのが「礫槨」の模型(写真ですが) |
「礫槨」の絵図というか。 |
多数の副葬品と共に横たわっていました。 金錯銘鉄剣もありますね。 |
以前あった礫槨の模型
下記の写真2枚は、2008年に撮影したものです。
以前は後円部の頂上にはこのような「礫槨」の模型が展示してありました。しかし、風雨に耐えられなかったのか、2016年夏ころに上に掲載したような絵に書いた模型に変わってしまいました。
今となっては貴重な「礫槨」が模型だったころの写真です。 |
稲荷山古墳 後円部 案内板いろいろ
稲荷山古墳の埋葬施設について |
稲荷山古墳の出土品について |
稲荷山古墳の「礫槨」について |
稲荷山古墳の「粘土槨」について |
「金錯銘鉄剣」が日本史に与えた影響について書き添えておきます。
「江田船山古墳」という古墳が熊本県にあります。が1873年(明治6年)以降に発掘され、様々な副葬品が発掘されました。
それらは1965年(昭和40年)に国宝に指定されたのですが、その中に「銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)」という75字の銘文が刻まれている太刀があります。その太刀には「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□〜〜(□は破損のため判別不可能)」という一文があります。太刀に記載のある「獲□□□鹵大王」は長らく特定できていませんでした。
しかし、後から発見された稲荷山古墳から「獲加多支鹵大王」と書かれた鉄剣が見つかったものだから、当時の日本史学界は大騒ぎになりました。現在では江田船山古墳の太刀に刻まれた「「獲□□□鹵大王」は稲荷山の「獲加多支鹵大王」で間違いないだろうというのが定説になっています。
つまり西暦471年当時のヤマト王権は北は北関東から南は九州に至るまでの支配を確立していたとの推測が成り立つわけです。「さきたま古墳公園」の「稲荷山古墳」から出土した「金錯銘鉄剣」が、我が国の古代史の認識を一変させたと言っても過言ではない大発見だということがおわかりいただけると思います。
稲荷山古墳 後円部から前方部へ
後円部から前方部を見たところ。 |
上の写真の途中から前方部を。 |
振り返って後円部を見たところ。 |
前方部を階段を降りきったところです。 |
一応「稲荷山古墳」の正門みたいな場所です。 ここを真っ直ぐ進むと「稲荷山古墳」があります。 |